聴かれるということ 聴いてもらうということ
話を聴いてもらうだけで、こころやアタマが軽やかになった思い出はありますか?

小さな頃、家族に今日一日の出来事を話したとき
嬉しかったことは、家族に話してみてもやっぱり嬉しくて。
そして、自分と同じように、家族が喜んだり笑ったりすると、また嬉しかった。
悲しかったこと、辛かったこと、最初はひとりでしょんぼりしちゃうけど、家族や友だちに話してみたら、ちょっぴり悲しいや辛いが和らいだり。
怒っていたことも、「そっかぁ」「うんうん」と聞いてもらうだけで、真っ赤でぼぉぼぉキャンプファイアーみたいだった火が、勢いを和らげて、小さくなっていったり。
そんな記憶はありますか?
そんな「話す」と「聴かれる」は人の間で同時に起こること。
そして、「話す(はなす)」は、「離す」「放す」にも繋がっていると言われます。
「聴いてもらう」と、感じたもの・ことが変化したように感じるのはどうしてかな?の前に、「話す」とき、私たちに何が起こっているかを少し見てみましょう。
⭐︎私たちは、「話したい」~話すということ~
友達や家族といる時、会話や対話が起こります。
その時、あなたの中で、「聴く」より「話したい」、「話を聞いてほしい」が起こりませんか?
この「話したい」「話を聞いてほしい」は、「知ってほしい」「理解してほしい」という願いに繋がっています。
私たちは、こころに湧き上がったものを、アタマにある知識や記憶を使って、伝わるように表現します。
この「こころに湧き上がったもの」は、形を成さない漠然としたイメージや質感、感覚として起こりやすいもの。
それらを、今まで聞いたことがあったり、知っている=「じぶんの中に貯蔵してある」材料を使って、目や耳など五感を使って感じられるものへと変化させていくと、ぼんやりしていたものが、形を表していきます。
そして、その表現の一つとして、言葉と音を用いて、口(舌も)を通して行われる行為が「話す」。
この「こころからアタマ」へ、そしてアタマを使って、「見える・聞こえる・触れられる」ように表していく時間の中で、私たちは自分自身を「知り」「理解」していくのだと思います。
そして、自分の「理解」したものを、人にはなすことで、アタマの中=「自分ひとりだけが知っている」が、外の世界へ飛び立っていく=「自分の中から外の世界へ」が起こります。
つまり、自分ひとりのものが、「わたし」を「離れ」て、「わたし」という囲いを開け「放って」、誰かと共有するものへと変わっていく。
外の世界へと「わたし」が流れだしていくとき、わたしのアタマの中やこころは空間を取り戻し、同時に、聴く人の中へ「わたし」が流れこんでいくのです。
そう、人に話すことで、喜びがさらに膨らみ、広がったり、苦しさや悲しみが和らぐのは、「共有する」「共有される」ことで、抱えていたものが軽やかさを帯び、流れていくから。
そして、「共有される」は、「知ってもらう」「理解してもらう」へ繋がっていきます。その最初の一歩、始まりが「受け止められる」ことです。
聴かれるということ=受け止められるということ
黒柳徹子さんの子供時代の思い出「窓ぎわのトットちゃん」を読んだことは、ありますか?
私は、子供の頃から、この物語が大好き。
目次の次の扉には
「これは、第二次世界大戦が終わる、ちょっと前まで、実際に東京にあった小学校と、そこにほんとうに通っていた女の子のことを書いたお話です。」と書かれています。
そう、玉ねぎのような髪型をされて、茶目っ気と思いやりに溢れたお人柄と、広く深い知識で多方面で親しまれている徹子さん。
この物語は、彼女が実際に通っていた、自由で開かれたユニークな学校と幼い頃の彼女のお話です。
その中で、印象に残っているお話がいくつかあって、その一つが校長先生とのお話。
「校長先生」という章で語られる、初登校の日のこと。
地面から生えている門~根っこのある2本の木に、学校の名前を記した札が下がっている~を通り、電車の教室が並んだ校庭に、歓声を上げて走り出したトットちゃん。
その電車の教室で勉強したかったら、校長先生とお話してちょうだいと、お母さんに言われました。
そして、お母さんと一緒に校長室へ向かったのです。
この学校に来るのに、電車に乗ったトットちゃん。
教室として校庭に並んでいるたくさんの電車を見たので、校長先生は駅の人なんじゃないか?と考えます。
そして、開口一番、「校長先生か、駅の人か、どっち?」と訊ねます。
うふふ 無邪気ですよね。
駅の人ではなく、校長先生と答えてもらったトットちゃんは、その後「この学校に入りたいの」と校長先生に伝えます。
それを聞いた校長先生は、椅子をトットちゃんに薦めると、お母さんにこう伝えます。
「これからトットちゃんと話がありますから、もうお帰りくださって結構です。」
ほんのちょっぴり不安も覚えたトットちゃんですが・・・
校長先生は、トットちゃんの前に椅子を引っ張ってきて、とても近い位置に、向かい合わせに腰をかけると、こういったのです。
「さぁ、なんでも、先生に話してごらん。話したいこと、全部」
なんでも話していいと言われたトットちゃん。
いろんな物事に興味を持ち、観察するトットちゃんには、話すことがたくさんありました。
次から次へと話すトットちゃんの話を、校長先生は、笑ったり、頷いたり、「それから?」と先を促しながら、聴いてくださったそうです。
さすがのトットちゃんも、たくさん話して、とうとう話がなくなって口をつぐんで考えていると、校長先生は「もう ないかい?」と訊ねられます。
最後に一つ、見つかった話もトットちゃんは話し終えてしまいました。
その時、校長先生が立ち上がって、トットちゃんの頭に、大きくて暖かい手を置くと
「じゃ、これで、君は、この学校の生徒だよ」
そう言われました。
この時のことを、トットちゃんは、こんな長い時間(だいたい4時間だったそう)、一度だってあくびをしたり、退屈そうにしないで、トットちゃんが話しているのと同じように、身を乗り出して、一生懸命聞いてくれたと紹介しています。
この当時、トットちゃんは前の小学校を退学になり、周囲の大人たちも困っていました。
小学校1年生のトットちゃんは、そこまで敏感にではなかったとしても、なんとなく他の子供と違う目で見られているような疎外感を感じていたようです。
でも、校長先生と4時間も話した後、トットちゃんは、校長先生といると安心で、暖かくて気持ちいいと感じていました。
4時間・・・子供の話を、話している子どもと同じように楽しみ、驚いたりしながら聞いていた、この校長先生は、本当に優れた教育者だったのでしょうね。
新しい環境にワクワクしながらも緊張し、事情はわからないけれど、前の学校には通えないって、なんか変だな?と、トットちゃんはきっと想っていたと思うのです。
そんなトットちゃんが、話を聞いてもらってただけで、とても安心をしました。
この話を聞いてもらっている時、トットちゃんが受け取っていたのは、文字どおり「受け止められる」こと。
それが「ここにいていいよ」という安心感へと広がり、深くトットちゃんの中に沁み込んでいったのだろうと、私は感じます。

小さな子どもは、世話をしてくれる大人がいないと生きていけません。
そのことを、本能的に知っていると言われています。
そして、頭で考えるより、まだ感覚の方が鋭かっただろうトットちゃんにとって、なによりの栄養が、この「受け止められる」ことだったのではないでしょうか?
なんとなく他の子供達と違う・・・そのことで周りの大人の視線になんとなく違和感を感じている時、自分の存在を、そのままでいいよと「受け止められる」ことは、小さな子共にとって大切な「安心」へと繋がります。
人は「ここにいていいよ」という所属を求める生物です。
批判することなく、評価することなく、変えられることなく、そこにいること、在ることを知り、受け入れてもらう。
「聴く」「聴かれる」というシンプルな行為は、私たちにとって、そんな大きな大きな栄養でもあるのです。
当Spaceのセッションメニュー「こころを聴く時間」は、受け止められる安心を感じ、その感覚を日常にも育んでいきたい方におすすめの対話セッションです。